あの夏、百合子がいた。
「これが…力の代償と言うわけね…」
激しい痛みと動悸に転げ回ったあと隔離室の中で小池百合子は静かに呟いた。
東京都知事の仕事は過酷極まる。小国など遥かに凌駕する人口と金の流れを制御しながら政府との折衝を図る大仕事。小池は力を欲していた。
「全てのワクチンを同時接種…ですか!?」
「そうよ。オリンピック、都議会選…私にはもう時間がないの。」
「そんなこと危険すぎます!それに…都知事もご存知でしょう!?尾身会長からのあのお話を!」
多羅尾が語気を荒らげる。
『人類の遺伝子情報の中に眠る闘争本能を限界まで呼び出し死をも恐れぬ狂戦士とする。』
5Gに繋がる、磁力を得るなど荒唐無稽のワクチン接種デマの中に突如として現れた怪情報。ネットでは一笑に付され受け流されていたが、アメリカ国立感染症研究所のファウチはこの情報に目を奪われていた。
「Mr.オミ、添付したデータは確認したかね?」
ファウチがリモート画面越しに語りかける。
「ファウチ所長…。これは、まさか、こんなことが…。」
画面を見つめながら狼狽する尾身にファウチは続けた。
「ファクト、だよMr.オミ。これこそがファクトなんだ。科学は時に人の想像を凌駕する。」
『ファイザー、モデルナ、アストラゼネカ社のワクチンを全てを寸分違わず同時に接種すると、人間は本能の限界を超えた力を手に入れ、狂戦士と化すーー』
ファウチからのデータを確認した尾身はすぐさま政府官僚及び自治体首長へトップシークレットとして連携、すぐさま箝口令が敷かれた。
ワクチン(vaccine)の語源はラテン語で『牛』を意味するvaccaである。
近代免疫学の父であるジェンナーが天然痘の予防に牛痘接種を行ったことが由来とされている。
「ミノタウロスの伝説が現代に蘇ったとでも?なんとも不出来なジョークだよまったく…」
ファウチは研究資料を握り潰した。
尾身からの情報はもちろん都庁にも届いていたがこれを"良いニュース"と捉えたのは勝負師、小池百合子だけだった。
「この難局を乗り越えるために私には力が必要なのよ。」
「しかし…!」
「東京都の"ゲームチェンジャー"が実は私だった…って筋書き、面白くないかしら?」
小池は悪戯っぽく笑った。
小池の強い要望により、『都知事増強作戦』が秘密裏に進むことになった。
世界初の実験、それも首長自らが自分の意思で行う異例の事態に各国首脳陣は動揺を隠せなかった。
IOCの圧力か?自民党の作戦か?アメリカが絡んでいるのか?
各国の飛び交う推測を尻目に、小池は自らの強さだけを望んでいた。
「いい名前を思いついたんだけど。」
接種直前、小池は責任者の尾身に語りかける。
「3つの製薬会社の名前をミックスして…"ファイナルアストラル"というのはどうかしら。」
「結構なことです。」
厳重体勢のもと3種のワクチンが同時摂取される。
小池・ファイナルアストラル・百合子の誕生である−−。
接種から3日、都庁に仮設された隔離室の中で小池はまだ副反応に苦しんでいた。
「この体の熱さ…渇き…カイロ大学にいた頃を思い出すわね…。」
筆舌に尽くしがたい痛みと震え。しかしそれこそが小池が欲していたものだった。逆境に滅法強い女帝は、苦しみの果てに希望があることを確信していた。
東京都には4名の副知事がおり、地方自治法第152条により長が欠けた場合は職務を代行するものとされている。
職務代理順で第一順位を務める多羅尾、第二順位を務める梶原の両副知事は、隔離室の前で不安を抱えながら主の帰還を待ち侘びていた。
接種から5日、都庁には焦燥感が広がり始めた。
「これ以上は限界です…。マスコミもそろそろ静養という情報だけでは丸め込めなくなる!都知事がワクチン接種で機能不全だなんて…万が一知られたら都のイメージは…!」
「わかっている。だが私達には待つことしか出来ない…。どんな結果であれ、な…。」
多羅尾は祈る思いで隔離室の扉を見つめる。
「ファイナルアストラル("最後の星幽")か…。言い得て妙ですよ。あなたこそが東京の最後の希望の星なんだ…。」
多羅尾が振り絞るように呟いたその瞬間、隔離室の扉がガチャリと開いた。
「都知事!」
多羅尾の目に飛び込んできたのは衰弱からか一回り小さくなったようにも見える小池百合子だった。
不測の事態に備えて待機していた警護隊が多羅尾を取り囲み、小池と対峙する。
『狂戦士と化す』。
事前に尾身から連携されていた情報からしばし張り詰めた空気が流れたが、小池は小さく肩で息をするのみであった。
失敗か、いや単なるデマか?
安心しかけた多羅尾が小池の目を見たその瞬間だった。
「強い。」
多羅尾が無意識に呟く。
彼の目の前にいるのは息も絶え絶えな1人の高齢女性。しかし多羅尾には彼女の瞳の奥に棲む狂気が見えていた。
『狂戦士にならなかった』のではない。この女の精神力が『狂戦士にさせなかった』のだ。
そう直感した時、多羅尾は彼女が女帝と呼ばれる由縁を理解した。
粉骨砕身−–。
職務に復帰した小池・ファイナルアストラル・百合子はまさに鬼神の如き働きぶりを見せた。不眠不休で膨大なタスクをこなす様は、小池がワクチンを制御し並外れた力を得たことを示していた。
都の定例会見を取材した記者歴30年のベテランは、当時の印象を後にこう述懐している。
「俺ァね、今まで色んな所に潜り込んで来たわけよ。今じゃ考えられねぇような取材もしょっちゅうやったもんさ。アポ無しで突撃して警察沙汰になったりヤーさんに囲まれたりよ。巨大財閥の会長、世界の誰もが知るスーパースター、黒い噂の絶えねぇ大物政治家…。色んな人間を間近で見てきた。しかしね。あの日だ。病み上がりの都知事にバシィッと喝でも入れてやろうってね。このクソ忙しい時に何休んでんだよと。そんで質疑応答の時間にいの一番に手ェ挙げて小池さんと目が合った瞬間さ。」
「ありゃ人間じゃねぇよ。あの目、怖えんだよ、今も。」
「俺ァ記者引退することにしたよ。無理なんだ。もう。」
小池の定例検診を監督する尾身は頭を抱えていた。
「こんな事実を信じろというのか…。」
小池の体内では3種ワクチンの同時摂取による抗体の異常な動きが続いていた。本来、抗体の過剰反応が起きれば自己の正常な細胞も傷つけてしまう重篤なアレルギーやサイトカインストームなどの原因となる。
しかし小池の体内では正常な細胞に対する過剰反応は全くと言っていいほど起きていなかった。異常な数の抗体は全てウィルスを殺すためだけに働いていた。
「私って不器用なのよ。一つのことにしか集中できなくて。」
困惑する尾身に小池が語りかける。
「悪いやつは倒す…。それでいいじゃない?」
東京オリンピックまで数日。東京は異様な空気に包まれていた。急増加した感染者数により4度目の緊急事態宣言が発令…。世論が大きく荒れる中、小池は東京都の長として国民に向けた緊急記者会見を開くと発表したオリンピック開催における意義と責務を自らの言葉で語る必要があると説いたのだ。
「私、この街が好きよ。」
「え?」
「だから逃げないの。自分の務めから。どんな状況でも戦い抜きたいって体が叫んでるのがわかる。」
会見の直前、小池は誰ともなしに呟く。
「よく見ててね。これが私の最後の会見だから。」
「都知事…?」
多羅尾の制止を振り切り小池は会見場へ歩みを進めた。
「東京都知事の小池百合子です。今日は皆様に大切なことをお伝えしたくこの場を借りることにいたしました。」
小池は強くはっきりと語り出した。
「この一年半、皆様には大変なご負担とご心配をお掛けしていること、重々承知しております。東京都としては全力を尽くす所存に変わりはごさいません。」
「このような状況下でオリンピックを開催する意義があるのか…都民の皆様が感じている疑問や不安な気持ちは重く受け止めております。しかし私は都知事として東京オリンピックの開催は今の東京都…いえ、世界のために不可欠であるとここに断言致します。都民の皆様、どうかご理解をいただきたい。」
「新型コロナウイルスに打ち勝った証としてのオリンピックの実現…それこそが私に残された唯一の使命であると確信しております。皆様の命をどうか私に預からせていただきたい。例えこの身が尽き果てようとも、都の安全は必ず保証いたします。ワンフォーオール、オールフォーワン。小池百合子でした。」
その日から小池は1人執務室に閉じ籠り、急ピッチで何かに取り組み始めた。都庁の全職員はその鬼気迫る雰囲気を扉越しからひしひしと感じていた。
「これが小池都知事と過ごす最後の時間なのかもしれない。」
直接口に出すことは無くとも、全員が小池との別れの刻が近いことを感じ取っていた。
迎えた開会式当日の朝、小池は官邸にいた。
「君には申し訳ない決断をさせた。」
菅首相はゆっくりと口を開いた。
「あら、お気になさらず。私が望んだことですから。」
「東京オリンピックは必ず成功させてみせる。君の…君の意思を無駄にしない為にも。」
「私のためじゃなくて国民のため、でしょ?」
菅は一筋の涙を流していた。
「この街を…東京を愛しているんだな。」
「それが私の務めですもの。後悔なんてしていないわ。」
「君の覚悟を尊重する。開会式の成功は保証するよ。」
「お願いしますよ。私の最後の晴れ舞台…なんだから。」
小池は噛み締めるように言葉を紡いだ。
最後の聖火ランナーが国立競技場に向けて近づいてくる。各催しが次々と行われ、開会式も大詰めを迎えていた。官邸での打ち合わせを終え千駄ヶ谷に移動した小池は、着火を待つ聖火台を見つめながら小さく息をついた。その隣で多羅尾は嗚咽を止めることができなかった。
別れの時が近づいていた。
「ごめんね多羅尾くん。こんな大事な時期に全てを引き継ぐ形となってしまって。」
「そんな…都知事のおかげで我々は…。」
「ふふ、いいのよ最後にお世辞なんて。後のことお願いね。」
「都知事がご安心できるよう全力を尽くします…。」
「多羅尾くん…。」
「はい。」
「あなた…この街は好き?」
開会式のテレビ中継はクライマックスを迎え後は聖火の点灯を待つのみだった。
「さあここで最後の聖火ランナーが国立競技場へ入場してきました。その手には数々の国と地域を超えて紡がれてきた聖火がしっかりと握られています。あっと…これは…人が出てきました。あれは…小池都知事でしょうか!?」
「小池都知事が聖火を受け取りました!そして今、聖火台へ向かって走り出しています!なんというサプライズ!最後の聖火ランナーは小池百合子都知事その人が務めています!」
小池は一歩一歩国立競技場のトラックをゆっくりと踏みしめた。
彼女の計画を完璧に実行する為に。
開会式から遡ること数日。
小池は菅、IOCバッハ会長らを交え東京オリンピック開会式に伴う自らの計画について明かしていた。同席した尾身はワクチンの同時接種による小池の体の変化とその果たすべき役割について補佐的な説明を果たした。
計画の内容はこうだった。
3種のワクチンを同時摂取した小池・ファイナルアストラル・百合子の体の中では抗体の異常増殖・異常発達が起きており、その全てはウイルスを殺すためだけに作用していた。常人であればこの抗体の闘争本能に精神の働きが乗っ取られ暴走するところであるが小池は持ち前の精神力で自我を保ち続けていた。
驚くべきことにこの抗体は突然変異を起こしており、まるでウイルスのように空気中で人から人へ感染することが出来る構造へと変化していた。小池の体から放たれる空気はCOVID-19のウイルスを死滅させる効果があるという研究結果を尾身は定期検診から導き出したのだ。
しかし一つだけ条件があった。
小池から直接抗体を受け取った場合、常人であれば自我が耐えられず精神崩壊を起こしてしまう。この強力すぎる抗体は宿主が小池であるが故に制御できていた。この抗体を万人に正常に作用させる為にはその働きを弱める必要があった。
「熱です。熱によりこの抗体は力を弱めます。」
世界中の人間が一堂に集い、かつ大きな熱源が存在する場所。
「開会式よ。私は聖火と一つになる。」
小池の発言に一同がどよめく。
「私ね…もうきっと長くないの。自分の体だから分かる。だけど最後に東京の長として世界にケジメを付けたい。」
小池の目は覚悟に満ちていた。
小池は聖火台へ一歩ずつ進んでいく。これまでの、そしてこれからの東京の歴史をなぞるかのように。
「あっ!」
悲鳴と共に小池がよろめく。彼女の体はとうに限界を迎えていた。
「聖火が…!」
聖火トーチが地面に落ちようとした瞬間だった。
すんでのところで聖火トーチをキャッチする男。そしてそれとは別の男が倒れかけた小池を後ろから支えた。
「あなたたちは…!」
「あーっとこれはまたしてもサプライズ!小池都知事の元に猪瀬直樹元都知事と舛添要一元都知事が駆けつけて彼女を支えています!驚きの演出です!」
「猪瀬さん…。」
「小池さん、これ落としましたよ。」
猪瀬が小池にトーチを手渡す。
「舛添さん…。あなたまで。」
「小池さん、私はいつもあなたにうるさい小言を言ってるがね、都を思う気持ちは一緒だって信じてますよ。」
2人の元都知事に助けを得て、小池は再び歩み始める。
小池が聖火台の前に辿り着く。全世界の視聴者が、各国選手が、首脳が、そしてこの国の象徴が小池を見つめていた。小池がトーチをゆっくりと近付けると聖火台の炎は大きく揺らめいた。
燃え盛る炎を背に振り返ったその姿は、火の神軻遇突智を産んだイザナミのようだと言う人もいた。
ただ、美しかった。
「ありがとう。またお会いしましょうね。ふふふ。」
小池はいっぺんの躊躇いもなく笑ってみせた。それは人類がウイルスを克服した証の笑顔だった。
会場の誰もが言葉を発せぬまま、小池は聖火の中に消えていった。
その瞬間炎は彼女のシンボルカラーである鮮やかな緑色となり国立競技場を照らした。
柔らかな緑色の光は会場中の各国の選手を包み込む。人種も性別も思想も関係ない。身体が、そして魂が洗練されていく。
世界は本当の意味で一つになった。
東京オリンピックは大成功を収めた。開会式のその日から国内の感染者数は激減。各国の選手が帰国した母国でも同じような現象が続き、世界は恋焦がれた平穏を取り戻していった。
数年後、COVID-19の非日常は遠い過去のものとなった。
しかし今日も都庁前に設置された銅像の前には人が絶えない。高さ20mの小池・ファイナルアストラル・百合子像は東京の新たなシンボルとなっていた。彼女の満面の笑みを模した像を見つめるたび、人々はこういうのだった。
あの夏、百合子がいた。
大統領の一番長い夜
「これで私も君と同じ立場か。」
全米の混乱が冷めやらぬ中、トランプはゴルフ場でゴルフなどしていなかった。
「国を背負う立場には矛盾が付き物だと思わないか?」
トランプは電話口の相手に続けた。
「数億人分の人生と向き合うくせに、たった1人の人間とも自由に連絡が取れないなんてね。しかしだからこそ…」
「この会話には何事にも代え難い価値がある。そうだろう?ドナルド。」
電話越しに自分のセリフを盗まれたトランプは小っ恥ずかしそうに思わず頰を緩めた。
「まったく、バイデンなんかよりもよっぽど狡いよ君は。」
「真面目なだけでは国のトップは務まらないよ、ドナルド。」
若い頃より故郷・ニューヨークで不動産王としての地位を恣にしてきたトランプだったが、彼が大統領選に出馬した当時、アメリカのリーダーとしての資質を疑問視する者は少なくなかった。
実は当の本人もそれは同じで、過激な言動を繰り返すことでその不安を払拭しようとしていた。
自分は強い。何度もそう言い聞かせるも内心はいつも震えていた。
2017年の就任直後、ある1人の男がトランプの目を惹いた。
祖父も首相経験者であるサラブレッドだというその男は、当時既に首相を5年務めあげ、その巧みな外交力で各国を相手に大きな存在感を放っていた。
大統領として右も左も分からぬトランプが彼に心を奪われるのにそう時間はかからなかった。
それからというものトランプは外遊が楽しみで仕方なくなった。
G7サミットや2国間での首脳会談。世界の各地で彼と逢瀬を重ねた。
大統領専用機エアフォースワンに揺られながら気分はまるで初恋の幼馴染に会いに行く子供のようだった。
「今日はどんな話をしようか?話したいことがたくさんあるんだ。」
「いいかいドナルド、外交とは言わば我慢の駆け引きだ。」
2人きりの執務室に彼の声が響く。
「2国間で互いの想いが一致するようゆっくりと歩み寄る。時には強引さも必要だがね。」
「フッ、それじゃまるで…」
彼と不意に目が合ったトランプは言いかけた言葉を飲み込む。
執務室に長い静寂が流れた。
『レームダック』という言葉がある。
直訳すれば『脚の不自由なアヒル』。転じて"役立たず"や"死に体"とも訳され、殊にアメリカ政治の世界では、選挙で負けたがまだ任期の残っている大統領を揶揄するのに使われることが多い。
事実上バイデンに敗れたトランプのレームダック化は徐々に進んでいた。
「"役立たず"と言うなら…」
保守派のFOXニュースですら自身の敗北を伝える報道を流しているのを横目に見ながらトランプは誰に向けるわけでもなく呟く。
「君が突然総理の職を降りたあの日から、既に私はそうだったよ。」
初訪日の際、川越のゴルフ場で撮った2人の写真を見てトランプは息を吐いた。
実は大統領選の直前から一部の共和党支持者は異変に気付き始めていた。過激な言動に陰りが見え始めたトランプはそのままCOVID-19にも罹患。
それはちょうど極東の島国の首脳が職を辞した直後のタイミングだった。
「病は気から…か」
かつて彼に教わった日本の諺を思い出しトランプは病床で自嘲気味に笑っていた。
大統領選に敗れたトランプは民主党の不正選挙を訴え、法廷闘争に持ち込む長期戦の構えを見せていた。
だがそれは表向きのポーズで、実際には大統領のポストへの執着心は微塵も残っていなかった。
彼が憧憬の念を抱いていた男は、首脳会談の場にはもういない。大統領を続ける意味はもはや失われていた。
だがトランプには自分の気持ちを整理する時間が必要だった。
公に敗北宣言を行えば、バイデンが正式に就任するまでの期間、"役立たず"となったトランプにはあらゆるメディアからの批判や訴訟の数々、手のひらを返したかのような国民の罵声が飛んでくることは目に見えている。
それらを受け止める覚悟は勿論出来ていた。ただその前に彼との時間をもう一度だけ作りたかった。
部下に不正選挙だと騒がせ時間を稼いだ。大統領の職を降りれば再び2人は対等な立場になる。
その前に米国大統領として、"役立たず"になる前の最後の仕事として、トランプはゴルフ場で彼に電話を掛けた。
「これからは首相と大統領という関係ではなくなる。私達の会話には"会談"だとかいう仰々しい言葉は使われなくなるんだ。」
トランプの声は興奮していた。
「それだけでこの地位を手放すのに十分な対価だと言えるよ。」
「そうだね、ドナルド。ところで一つ大事なことを伝えてもいいかい?」
その瞬間、空から突然轟音が鳴り響いた。すぐにSPが飛び出しトランプを囲う。
テロ攻撃か?いや、何でもいい。電話を中断したことへの報いを受けさせねば。トランプの頭は怒りで満ちていた。
SPの背中越しに辛うじて空を見上げると、ちょうど日の丸が描かれたヘリコプターが着陸するところだった。ヘリコプターから降りた男がトランプへと歩み寄る。
「まさか…シンゾー…どうしてここに…!?」
「『時には強引さも必要』…そう教えただろう?ドナルド。会えて嬉しいよ。」
そこに立っていたのは、かつてトランプが憧れたあの柔和な笑顔をそのままこちらに向けている安倍晋三その人だった。
その夜、トランプがあっさりと敗北宣言を発表すると全世界が呆気に取られた。
トランプは頗る晴れやかな表情で、お馴染みの攻撃的な口調はどこへやら、穏やかに言葉を紡いだ。
「完敗だよ。最初に君を見た時から私はもう負けていたんだな。」
トランプはカメラをまっすぐ見つめて言った。
それがバイデンに向けた言葉ではないということに世界の誰も気が付いていなかった。
それでいいんだ。合衆国大統領として、最後に地球上で君だけに言葉を届けられるなら。
この後の2人だけの"会談"で何を話そうか。議題は尽きないな。
会見場を後にするトランプの顔はまるで勝者のような表情だった。